2017-08-17

無題

Osho、セラピストという役割を果たすことは、私自身の精神的な成長にとって危険なのでしょうか? 
 人びとを助け、しかも同時に、私自身のエゴを溶かし去ることは可能でしょうか? 私は、はっきりとしている部分と、明晰さとは無関係でいたがっているもう一方の部分との間の、微妙な戦いが内側でつづいているのを感じます。 
 あなたのガイダンスのもとで私は、自分の見る能カを使うときに、他者を支配せずにいることを学びました。でも依然として私は、私自身を支配しているのでしようか?

 セラピストの役割は、非常に微妙で、複雑なものだ。

 まず、セラピスト自身が、助けようとしている相手と同じ問題で苦しんでいる。セラピストは、技術を使っている者にすぎない。彼は、自分がマスターだ、と自分自身をごまかし、その振りをすることもできる。これは、セラピストとしての、最大の危険だ。だが、ほんの少しの理解で、ものごとは変わってくる。
 まず、「他の人びとを助ける」という見地から考えないことだ。それがあなたに、救世主である、マスターであるという考えを与える。するとエゴが、裏口から再び入り込んでくる。

 あなたは重要になる。
 あなたが、グループの中心だ。誰もがあなたを尊敬している。

 「助ける」という考えを落としなさい。「助ける」のかわりに、「分かち合う」ということばを使いなさい。あなたは、何であれあなたの持っている洞察を分かち合う。参加者は、あなたより劣っている誰かではない。セラピストもセラピーを受ける者も、両者とも同じ舟に乗っている。セラピストは、ほんの少し知識があるにすぎない。あなたの知識は借物だという事実に覚めていなさい。あなたが知っていることは何であれ、それがまだあなたの体験ではないことを一瞬たりとも忘れてはいけない。そしてこれが、あなたのグループに参加している人びとを助けることになる。

 人間は、非常に微妙なメカニズムだ。それは、両方に働きかける。セラピストはマスターになりはじめる。そして、助けるよりもむしろ、参加者の何かを破壊している。なぜなら、参加者も技巧のみを学ぶことになるからだ。愛にあふれること、分かち合われる友情信頼の雰囲気はなくなる。そのかわり、「あなたはより多くを知っている。私は少ししか知らない。いくつかセラピー・グループに参加することで、私もあなたと同じぐらい多くを知るだろう」
 参加者自身が、徐々にセラピストになりはじめる。ほとんどの国で、何の学位も要求されていないからだ。ごく少数の国が、受け容れることのできないあらゆる種類のセラピーを禁止しはじめた。治療学、精神分析精神療法の分野の、大学の資格をえた者のみが、セラピー・グループで人びとを助けることができる。
 これは、世界中のほとんどあらゆる国で起こることになるだろう。セラピーが、ビジネスになってしまったからだ。そして、資格のない者が、それを牛耳っている。彼らはテクニックは知っている。テクニックなら学ぶことができるからだ。いくつかグループに参加することで、彼らはあらゆるテクニックを知る。その上に、自分自身で、でっちあげも作ることができる。だが、統括する術はない……。

 だが、覚えておきなさい。あなたが「助ける者」を演じるとき、「助けられる者」はけっしてあなたを許しはしない。あなたは、彼のプライドを傷つけた。あなたは、彼のエゴを傷つけた。あなたは、そんなつもりではなかった。あなたは、ただ自分自身のエゴをふくらませたかっただけだ。だが、これは、あなたが他人のエゴを傷つけるときにしか、起こりえない。あなたは、他者を傷つけることなしには、自分のエゴをふくらませることはできないのだ。あなたのより大きなエゴには、より大きなスぺースが必要になる。そして他者は、あなたとともに在るために、自分のスペースを、自分の人格を縮めなければならない。

 まさに最初から、真撃な愛情深い人が……。そして私は、愛に勝る治療はないことを絶対的に必要なポイントとする。技巧は助けることができる。だが、真の奇跡は愛を通して起こる。セラピーに加わる人びとを愛しなさい。そして、彼らのなかの一員でいなさい。より高いとか、より神聖だという気取りなしに。
 まさに最初から、明確にしなさい。「これは、私が学んだテクニックだ。私の体験はほんの少しだ。私はあなたにテクニックを与える。そして、私の体験を分かち合う。だが、あなたは私の弟子ではない。あなたはただ、まさかの時の友だ。私には、いくらかの理解はある、そんなに多くではないが。私は、それをあなたと分かち合うことができる」。おそらく多くの者が、さまざまな分野、さまざまな方向からの彼ら独自の理解を持っている。彼らもまた、自らの体験を分かち合い、グループを豊かにすることができる。
 ことばを換えて言えば、私が言っていることは、セラピーのまったく新しい概念だ。セラピストはたんにコーディネーターにすぎない。ただ、グループをより静けさに満ち、穏やかにしようと試みる。彼は、何もまちがった方向にいかないよう目を見張る。マスターというより、むしろ保護者だ。
 そしてあなたもまた、明確にしておかなければならない。「私もまた、自分の体験を分かち合おうとするなかで、学んでいる。あなたの話に耳を傾けるとき、それは、あなただけの問題ではない。私の問題でもある。そして、私が何かを言うとき、私はそれを言っているだけではなく、聞いてもいる」と。

 あなたが特別な誰かではないことを、強く明確にしいなさい。これは、グループのはじめになされなければならない。そしてグループが、より深く探求していくなかでも、それをつづけなければならない。
 あなたはただ、数歩だけ先を行っている年長者であるにとどまる。さもなければ、あなたは人びとを助けることはできない。彼らは、テクニックを学ぶだろう。そして、自らセラピストになっていくだろう。それに、愚か者は充分にいる。地球上には、50億の馬鹿者が……。彼らは、彼ら自身の追従者を見いだすだろう。
 人びとが自分を尊敬しはじめると、「人びとが私を尊敬しているのなら、私には何か偉大なものがあるにちがいない」と考えはじめるのは、人間の弱さだ。人びとは悩んでいる。彼らは、人間の脆さゆえに苦しんでいる。だが、あなたもまた人間だ。そして、まちがいを犯すことは、まったく人間的なことだ。どんな非難もなしに、大いなる愛を持って、彼らが自分自身を開くのを助けるがいい――。それは、あなたが自分自身を開いてのみ可能だ。

 私は、奇妙な事実に出くわしたことがある。見知らぬ者同士は、自分が知っている相手にはけっして言えないようなことを語り合う。列車のなかで、あなたは誰かに会う。あなたは、相手の名前を知らない。その人がどこへ行くのか、どこから来ているのか知らない。すると、人びとは分かち合いはじめる。私は、国中を20年間休むことなく旅し、人びとが自分たちの秘密を見知らぬ相手に打ち明ける奇妙な現象を見てきた。なぜなら、見知らぬ人間は、それを食い物にしはしないからだ。次の駅がくると、見知らぬ相手はいなくなる。おそらく、二度と会うことはあるまい。それに彼は、あなたの評判や何かを落とすような関係にはない。それどころかあなたが、あなたの秘密を、あなたの弱さを、あなたの脆さを分かち合うことで、相手はより自信を持ち、あなたに対してより多くの愛惰を、信頼を寄せるようになる。あなたの信頼が、あなたに対する彼らの信頼を呼び起こす。あなたがあまりにも無垢で、あまりにも開いているのを見て、彼らは開きはじめる。それは連鎖反応だ。

 だが、あなたがマスターになってしまったら……。このコミューンから、幾人かの愚かなセラピストがマスターになった。彼らは、彼ら自身の実存について何ひとつ知らない。彼らは、存在の神秘について何ひとつ知らない。彼らが知っているすべては、ある特定のマインド・ゲームだけだ。もし、あなたが行き着いた人のガイダンスのもとに究極的にいるのなら、そのマインド・ゲームも助けになりうる。セラピー・グループは、確かにほんの少し混乱をなくし、ほんの少し明晰さを創ることができる。

 だが、セラピー・グループは最後ではない。それは、ほんのはじまりにすぎない。それは瞑想のための準備だ。瞑想が光明を得ることへの準備であるように。

 あなたが、ものごとの単純な算術を理解すれば、それをむずかしいと思うこともないだろう。そして、あなたはもっとグループを楽しむ。グループは、あなたとともに、より深くいくことができるからだ。あなたは、グループの教師であるだけでなく、学ぶ者でもある。

 カリール・ジブランの予言者、アル・ムスタファは、すばらしいことばを残している。誰かが、「学ぶことについて何かおっしゃってください」と尋ねたとき、彼は言った。「あなたが尋ねたから、私は話そう。だが、覚えておくように。私は話している。そして私もまた、あなた方とともに聞いているのだ」
 私は、ここポディウムの上にいる。そして私は、あなた方のなかに坐ってもいる。私は、まったく特別ではない。それが、人びとを近くに引き寄せる。特別だと自慢することは、隔たりを生む。エゴの充足は、愛の雰囲気を破壊する。そして、私はもう一度繰り返す。愛よりも偉大なセラピーは存在しない。

 あなたのグループの参加者になった人びとを愛しなさい。あるべき姿としてではなく、あるがままの彼らを愛すのだ。彼らは生涯にわたって、あらゆる類の宗教、政治、社会、神学、哲学の指導者に苦しめられてきた。指導者たちは、人びとが従えば愛する、人びとが自分たちの考えに沿ったイメージになれば愛する、そういった者たちだ。彼らは、あなたを完壁に殺し、粉々にし、自分たちの考えに従ってあなたを組み立てたときのみ、あなたを愛する。
 すべての宗教が人類に対して、そうしてきた。無傷でいたものはいない。そして、この人びとは自分たちが助けていると思っている。意識的に彼らは、あなた方に、理想、イデオロギー、規律、戒律を与えていた。あなた方を助けたいという、確固たる態度をもって。さもなければ、あなた方が道に迷うだろう、と。彼らは、あなたの自由を信頼することができない。あなたの尊厳に敬意を払うことができない。彼らは、あなた方をあまりにも貶めてきた。そして、誰ひとり反論さえしない。

 イエスが人びとに、「あなた方は羊だ。そして、私は羊飼いだ」と言ったとき、確かにあの人びとは羊だったにちがいない。なぜなら、ひとりとして立ち上がり、「これはあんまりだ! あなたは、自分自身をそんなに高く奉って、私たちのことを羊と呼んでいる。私たちを人間以下にまで引き下げている」とイエスに言った者がなかったからだ。
 さらにイエスは言った、「私は救世主だ。私は全人類を救う。唯一の条件は、彼らが私を信じることだ」だが、その条件は、あなたのなかの美しさすべて、あなたが美しく類稀な存在へと成長する権利のすべてを破壊する。

 私は、つねに、イエスは革命的なことは何も言わなかった、ユダヤ教に反抗してさえいなかったのではないかという疑いを持っていた。だが、問題がつきまとった。それなら、なぜ彼は磔にされたのか? 彼の強調するすべては、例外なく、「私はユダヤの預言者だ。ユダヤの神の子だ」ということだった。ユダヤ人が待っていた預言者、メシアだ。彼らの経典が語っていた。すぐにもメシアがやってくる、あなた方みなを救う最後のメシアが、と。あなたの側では、ほんの小さなことがなされるだけでいい。ただ、彼を信じることだ。
 イエスがなぜ礫にされたのかという私の疑問は、たんなる疑いではない。それには充分な証拠と証明、そして、その背後に論拠がある。ソクラテスは、確かに彼の革命的な思想、ギリシャ人には許しがたいその生き方ゆえに毒をもられた。確かに、ギリシャの若者にとって、彼の影響は絶大だった。年老いた世代は、恐れをなした。「すぐに彼らは行ってしまうだろう。そして、国中が、伝統に反し、神に反し、天国や地獄やもろもろのナンセンスに反対し、ただひとつのこと、真実を主張するあの男に影響されてしまうだろう」。真実は、あなたのなかにある。経典のなかではない。どんな救世主のなかにもない。どんなメッセンジャーのなかにもない。
 ソクラテスは、明らかに社会によって毒を盛られたのだ。彼が途方もなく革命的だったからだ。反乱の人だった。もちろん、彼が語っていたことは、人類全体のためのものだった。だが、それは過去に反した。何であれ、あなたの未来を高め、より豊かに、より美しく、より人間らしくするものは、過去に反してしまう。過去は野蛮で、醜く、非難すべきものだ。だが、イエスはそうしたことは何ひとつしていない。彼は、なぜ磔にされたのか? 彼は、古い過去に完全に同意していた。彼は、ユダヤ教が基本としてかかげていたことすべてを受け容れた。
 私の理解はこうだ――

 イエスが磔になったのは、自分たちがただの羊で、彼が辛飼いだと聞くのに、人びとが、うんざりしたからだ。彼は、非常に多くの人びとのエゴを傷つけた。彼は、非常に多くの人びとの自尊心を、人間として在る尊厳を台無しにした。それが、イエスの磔の理由だ。さもなければ、彼はまったく潔白だった。どんな目に見える犯罪も犯してはいなかった。

 だが、この犯罪は、それが目には見えず、表面には現れない、あなたが掴むことのできないものであっても、はるかに残忍だ。だが、あなたは理解できる。あなたは、あなたより高い、あなたより神聖だというふりをする者は許せない。彼が神の唯一の子で、あなた方はみな孤児なのか? 私生児なのか? あなたは何だろう? もし、神がみなの父なら、ただひとりの息子をきどっているこの男は誰なのか? 強調点は、「ただひとり」にある。彼は、全人類の、自分自身のエゴを育むという権利を取り上げてしまった。
 さもなければ、彼が何を語ろうと、何をしようと、無視されただろう。そこには、何も特別なことはなかった。彼は、単純にユダヤの古い頂言を繰り返していた。彼は、ユダヤの古い預言を引用していた。しかも正確でさえなかった。彼は教育を受けていなかったからだ。彼は読むことができなかった。彼は、けっして司祭のもとにいたことがなかった。ユダヤ人は、何千年もの長い学問の伝統を持っていた。彼らは、エルサレムに大きな大学を持ち、人びとはその全生涯を研究に捧げた。学識に関して言えば、彼らは非常に豊かだった。
 イエスは、知識の人ではない。そして、明らかに体験の人でもない。なぜなら、体験の人は、「私はただひとりの神の子だ」などというナンセンスを口にしないからだ。神は仮説にすぎない。それに私は、仮説が子どもを作るなんて聞いたことがない。そんなことをするのはインド人で、仮説ではない。仮説は完全に不妊だ。

 誰かがあなたを救わなければならないという考えは、あなたを傷つける。彼は、あなたに、あなた自身を救う自由さえ許さない。イエスは、非常に明確に理解されねばならない。彼は、人間の自由すべてに反する男のひとりだ。彼は、物腰も柔らかに話す、ちょうどセールスマンのように。だが、その意図は、個人――誰かのコピーでなく、ただあなた自身――としてユニークに成長する、あなたの基本的、根本的生得権を取り去ることだ。
 彼は、人びとをあるがままに受け容れなかった。そして、彼らが自分の教えに従うべきだと主張した。彼は、疑うことや、議論することさえ許さなかった。あなたは、神の子とは議論できまい。彼が言うことが真実なのだ。だが、それは、たった3年で積もりつもってしまった。彼は、世間で、3年以上教師でいられなかった。人びとは彼に我慢できなかった。それは、あまりにも侮辱に、屈辱になった。

 イエスの礫の理由は、キリスト教徒が世間に言いつづけているように、彼が大いなる革命家だったからではない。理由は、彼が非人道主義者だったからだ。人びとは、報復として彼を礫にしたのだ。それは、彼らの頭の上にあまりにも重くのしかかってきた。木を切り、父親の店まで丸太を引いていた教育も受けていない大工の息子が、突然、救世主になる……しかも、あなたが彼を信じるという、単純で、安っぽい条件で、すべての救世主に。
 彼は、あなたに、考える自由、瞑想する自由、探究する自由、探し求める自由さえ与えない。まったく何の自由も。彼は、世界最大の隷属、キリスト教を創った。今や、世界の半分がキリスト教徒だ。そして、これらすべての奴隷はカトリックあるいはプロテスタント、それは問題ではない――彼に責任がある。だが、彼の隷属は非常に微妙で、非常に心理的だ。
 今や、現実は、彼は自分自身を救うことができなかったということだ。そして、彼は、人類全体を救うふりをしていた。死の前に、「戻ってきて、人類を救うのに、どのくらいかかるのですか?」と尋ねられたとき、彼は言った、「心配しなくていい。私はすぐに帰ってくる」。2千年が過ぎた。私も、「すぐに」を引き伸ばすことはできるが、こう長くはない! 2千年は、あまりにおおげさだ。
 そして、今だに兆候がない。どこに聖母マリアがいるのかもわからない。少なくとも彼がくる前に、聖母マリアが現れるべきだ。大工のヨセフが現れるべきだ。彼が聖母マリアと結婚しなければならない。そして、彼が床入りをする前に、精霊が現れなければならない。それが、処女を犯す簡単なケースだ。こうしたあらゆる困難をともなって、イエスが生まれる。が、彼がどうしてあなたを救えるだろう? 

 私は、私の友人のひとり、優れた医者のことばを思い出す。彼がまだ生きているかどうか、私は知らない。ここ六年間、彼のことを何も聞いていないからだ。彼は、私がボンベイヘ、それからプーナヘと移る前に住んでいた都市で、もっとも著名な医師だった。彼は私に言った「私の全生涯の体験は、医者の役目は患者を治すことではないということなんだ。患者は、自分自身で治す。医者は、ただ愛に満ちた雰囲気、約束を与える。医者は、ただ自信、生き返ること、長く生きることへの熱望を与える。薬はみな、二次的な助けだ」だが、もし、人が生きる意欲を失ったら、彼の全生涯の体験はどんな薬も、何も助けにならないことになる。

 セラピストの状況も同じだ。セラピストは、人びとの心理的な問題を治す人ではない。彼は、愛に満ちた雰囲気を創れるだけだ。そのなかで、彼らは、自分たちの抑圧された無意識な空想、抑制、妄想、欲望を、笑われるという恐怖なしに、みなが慈愛と愛情を感じてくれるという確信を持って開くことができる。グループ全体が、治癒的な状況として機能すべきだ。
 セラピストは、たんにコーディネーターにすぎない。セラピストは、心理的に病み、かき乱された人びとを集め、ただ、何もまちがった方にいかないように見ている。そして、もし、ある考えで、ある洞察で、ある観察で、彼らを助けられるなら、あなたが体験を得ていないかぎり、「これは、私の体験ではなく、私の知識にすぎない」ことをつねに明確にしなさい。

 もし、あなたが真摯で、真実で、正直で、真正なら、けっしてマスター、救世主になる罠に落ちない。落ちるのは非常にたやすい。あなたがマスターに、救世主になると――あなたは、そうではないのだが――こうした人びとを助けてさえいない。あなたは、ただ、こうした人びとを、彼らの弱さを、彼らのトラブルを食い物にしている。
 世界中の精神分析のムーブメント全体は、起こっていることがらのなかでもっとも搾取的な試みだ。誰も救われない。みな、途方もなく搾取されている。誰も救われていない。なぜなら、精神分析医、精神療法家は……。心理学は、多くの派に分かれてきた。だが、彼らはみな、同じ仕事をする。彼らは、あなたを患者に貶める。そして、彼らは医者だ。
 そして、問題は、彼ら自身が同じ病いで苦しんでいることだ。精神分析医ひとりひとりが、救いを求めて、年に2回は他の精神分析医のもとに行く。これは、偉大なる陰謀だ。あらゆる狂気に耳をかしていると、あなたがマインドとその問題を超えていないかぎり、あなた自身も気が狂っていく。あなたは、あなたの患者が苦しんでいるのと同じ間題で苦しみはじめる。彼らを治すよりむしろ、彼らがあなたを病気にしている。だが、責任はあなたにある。

 愛を、開かれた感覚を、誠実さを持ち込みなさい。彼らがハートの扉を開きはじめる前の彼らは、あまりにも堅く閉ざしているので、誰も自分の問題がわかっていない。精神療法家の最初の役目は、自らのハートを開き、自分も同じ人間であることを彼らに知らせることだ。同じ弱さに、同じ性欲に、同じ権カヘの欲望に、同じ金銭への欲望に悩んでいる。苦悩と不安に悩んでいる、死の恐怖に悩んでいる。
 あなたのハートをあますところなく開きなさい。それが、他者があなたを信頼する助けとなる——あなたが何かになりすましているのではない、と。救世主、預言者、メッセンジャー、ティータンカラ、アバタラは、完全に姿を消した。今日では、彼らの誰も受け容れられないだろう。今度もし彼らのうちの誰かがふたたび現れても、人びとは石を投げて殺すことさえしないだろう。人びとは、彼らを笑い者にするだろう。彼らはただこう言うだろう、「あなたは馬鹿だ。自分が人類全体を救えるという考え自体が、狂気の沙汰だ。まず、あなた自身を救うことだ。そうすれば、私たちは、あなたの光を見るだろう。そして、あなたの壮大さを、光輝を見るだろう」。信頼はひとりでにやって来る。それは、要求されるものではない。それは、ちょうど、山からの新鮮なそよ風、大海からの高波のようにやって来る。そのためにあなたがしなければならないことは、何もない。あなたは、ただ、正しい時に、正しい場で開いていなければならない。
 あなた以外の誰も、あなたを救うことはできない。私はあなた方に言う、あなた自身の救世主になりなさい。

 だが、助けは条件つきで可能だ。それが、愛とともにやって来ることだ、「あなたは私を信頼し、あなたのハートを開いてくれた」という感謝とともにやって来ることだ。
 セラピストの役割は、確かに非常に複雑だ――しかも、愚か者たちがそれをやっている! 状況は、まるで肉屋が外科手術をしているようなものだ。彼らは切り方は知っている。だが、それで彼らが脳外科医になれるわけではない。彼らは、水牛、牛、あらゆる類の動物を殺せる。だが、彼らの役割は死に貢献するものだ。セラピストは生に貢献する。セラピストは、自分自身を生きることで、ハートの静けさに向かうことで、生への肯定的な価値を創らなければならない。

 あなた自身のなかに深く在れば在るほど、あなたは他者のハートのなかにより深く行き着くことができる。それは、まったく同じことだ……。あなたのハートも他者のハートも、それほどちがうものではないからだ。もし、あなたがあなたの実存を理解すれば、誰もの実存を理解する。そして、そのとき、あなたは自分もまた愚かだったこと、幾度も堕落したこと、自分自身に反して、他者に反して罪を犯してきたことを埋解する。もし、他の人がまだそうしているとしても、非難する必要はない。彼らは、気づかされなければならない、そして、彼ら自身に任されるべきだ。彼らを特定の枠のなかにはめようとはしてはならない。
 そうなったら、それが、セラピストで在る喜びだ。なぜなら、あなたは人間の内面を知るに至ったからだ。生のもっとも秘められ、隠された場所のひとつを。そして、他者を知ることで、さらにあなたはあなた自身を知る。これは、悪循環だ。他にことばがない。さもなければ、私は「悪」ということばは使わない。
 私がことばを作るのを許してほしい、これは、悪循環だ。あなたはあなたの患者に、参加者に開く。すると、彼らは彼ら自身をあなたに開く。それは、あなたがさらに開くのを助ける。そして、それは、彼らがさらに開くのを助ける。すぐに、セラピストはいなくなる。患者はいなくなる。ただ、愛に満ちたグループが互いを助けている。セラピストがグループのなかに消え去らないかぎり、彼は成功したセラピストではない。それが私の基準だ。

 あなたは言っている、「あなたのガイダンスのもと、私は私の見る能力を使うとき、他者を支配しないことを学びました。でも、依然として、私は私自身を支配しているのでしょうか?」それらはふたつのことではない。支配は支配だ。あなたが他者を支配しようと、あなた自身を支配しようと――。もし、あなたがあなた自身を支配しているのなら、そのときは、ある微妙なやり方で、あなたは他者をも支配することになる。そうならざるをえない。
 あなたが落とさなければならない最初の支配は、他者に向けてのものではない……。彼らがあなたの支配を受け容れるかどうか、それは確かではないからだ。あなたが落とさなければならない最初の支配は、あなた自身へのものだ。なぜ、あなた自身囚人になり、大変な努力をして自分自身のまわりに牢獄を築き、自分が行くところどこにでも、それを持ち運んでいくのかね? 
 まず、自由の、広大な空に翼を広げる鳥の、歓喜を学びなさい。あなたの自由そのものが、他者のための変容の力となる。
 支配はあまりにも醜い。それは、なんの差恥心もない政治家に任せておきなさい。彼らは最低の暮らしをしている。そして、自分たちは王宮に住んでいると思っている。彼らの生涯は、どん底の卑しい生涯だ。彼らはそこで生き、そこで死ぬ。彼らは首相だ。彼らは大統領だ。彼らは王だ。彼らは女王だ……。

 もっとも貴重なエジプトの詩人のひとりが、かつて尋ねられた、「世界には、何人の王がいるのでしょう?」と。そのとき、彼は言った、「5人の王がいるのみだ。ひとりはイギリスに、そして、4人はトランプのなかにいる」。今やこれは、5人の女王がいる、ひとりはイギリスに、4人はトランプのなかに、と言い換えることができる。が、彼らは、もはや何も持っていない。彼らは、ただ、空ろに感じる自分の内側を満たすために、さらに多くの権力を手にしようとしている。
 外から見れば、内側は空っぽだ。内側から見れば、全世界は空っぱだ。

 唯一、あなたの内側だけが溢れている。だが、溢れているものは、不可視だ。あなたの実存の香り、愛、至福、法悦、沈黙、慈愛――何ひとつ目で見ることはできない。

 それゆえに、あなたが外側から見ても、すべてが空っぱに思えるのだ。すると、強い衝動が起こる。いかにして、それを満たすか? 金銭で、権カで、地位で、大統領に、首相になることで……? 何かをして、それを満たすのだ! 人は、内側の空っぽ、内側の空虚とともに生きることができない。
 だが、こうした人びとは、内側に入ったことがない。彼らは外側から覗いただけだ。これが問題だ。外側からは、あなたは物質を見ることができるだけだ。愛は物ではない。至福は物ではない。光明を得ることは物ではない。理解は物ではない。知恵は物ではない。それはみな、人間の存在における偉大さだ。生は主観的だ。客観物ではない。だが、外側からは、物が見えるだけだ。
 それは、どんなゴミでも自分の虚ろな内側を満たそうとする、途方もない緊急性を与える。借物の知識でそれをいっぱいにしている人びとがいる。自ら好んで自分を痛めつける、それをいっぱいにしている人びとがいる。彼らは聖人になる。首相になるために、大統領になるために乞食でいる人びとがいる。あらゆるところで、空虚な人びとが、他者を支配せずにはいられないという必要にかられている。それが、彼らに、自分たちは空っぽではないという感覚を与える。

 サニヤシンは、自分の主観のなかに、内側から分け入ることからはじめる。そして、途方もない宝、尽きることのない宝に気づくようになる。そうしてのみ、あなたはあなた自身を支配することをやめる。他者を支配することをやめる。そんな必要はまったくない。その瞬間から、あなたの努力のすべては、個人として在ることを、自由を、至福、充足、平和の途方もない、尽きることのない源泉をみなに気づかせることになる。
 私にとって、セラピーが瞑想のための土壌を整えるのであれば、セラピーは正しく起こっている……。患者のための土壌、そして、セラピストのための土壌、両方を。セラピーは、あるポイントで瞑想へと向かわなければならない。瞑想は、あるポイントで光明を得ることへと向かう。こんなにも途方もない潜在性を持ちながら、ただ乞食のままでいるとは……。
 私は、他の人のことを考えると、ときおりとても悲しく感じる。彼らは乞食ではない。だが、乞食のようにふるまっている。そして、物乞いを落とす用意がない。物乞いこそ、自分たちがえたすべてなのだと恐れているからだ。物乞いを落とさないかぎり、彼らは自由が皇帝だということを、自分の帝国が内側にあることをけっして知ることはないだろう。

 あなたは、人びとを支配するのをやめているにしても、自分自身を支配しはじめているのではないかと疑っている。これでは何も変わっていない。あなたはメッセージ全体を誤解した。
 まちがいを犯すこと、誤解することは、人間的なことだ。だが、彼女は知性的な女性だ。セラピーの新しい考えをうまく扱うことができる。彼女はセラピーの先駆者になることができる。だが、あらゆるところに、あまりにも多くの愚か者がいる。あなたが、何か愚かなことをはじめれば、追従者がついてくるのを目にすることになる。

 ……あなた自身を可能なかぎり深く理解しようとしてごらん。セラピーは二の次だ。あなたが、瞑想と沈黙を通して、自分の実存を精錬しないかぎり……。私は、ワークをやめなさいとは言っていない。私は、その質を変容しなさい、と言っているのだ。それを真のワークにしなさい。あなたのハートを開きなさい。彼らにあなたの弱さを語るのだ、彼らにあなたの問題を話すのだ。彼らの助言を求めなさい彼らはあなたを助けられるだろうか? ひとたび、参加者が、セラピストはエゴイストではないことを理解すれば、彼らは絶対的な謙虚さと、開いたハートとともにやって来る。そうすれば、あなたは彼らを助けることができる。
 だが、つねに、いつでも、覚えておきなさい――セラピーそれ自体では、不完全だ。完壁なセラピーでさえ、最初のステップにすぎない。第二のステップがなければ、それは無意味だ。
 だから、患者が瞑想に向けて動きはじめた時点で、彼らに任せなさい。あなたの患者が瞑想への探究をはじめたとき、初めて、あなたのセラピーは完了する。彼らのハートのなかに、瞑想への大いなる憧れを創りだしなさい。そして、瞑想もまた、ただのステップ、第二のステップにすぎないことを彼らに伝えなさい。光明を得ることへとあなたを導かないかぎり、それ自体もまた充分ではない。これが、努力全体の項点だ。そして、私はあなたを信頼している、あなたにその能力があることを。
 セラピーの限界は瞑想がはじまる地点、そして、瞑想の限界は光明がはじまる地点だということをポイントにしなさい。もちろん、光明を得ることは、何かへのステップではない。あなたは、ただ、宇宙の意識のなかへ消え去る。あなたは、蓮の葉から大海へとすべり落ちる滴になる。だが、それは、もっとも偉大な体験だ。それは、最終的に生を意味あるものに、意義あるものにする。あなたのエゴがあなたから切り離していた宇宙、その一部にあなたがなることを許す。そして、それは非常にたやすい。この沈黙と同じほど、たやすい。誰も、何千もの人がここに坐っているとは考えられない。

 あなたは、ただ、正しい方向に動かなければならない。正しい方向の感覚、そして、すべてが、意識のより高い状態への踏み石になりうる。私は、あらゆることを使ってきた。が、方向は同じだ。私は、多くの種類の瞑想を用いてきた。外見は、ちがって見える。百と十二の瞑想法がある。それらはひとつひとつ非常にちがって見える。あなたは考えるだろう、どうやってこの異なった手法がみな、瞑想へと導いていけるのか、と。だが、それは導く。さながら、花輪を貫いて通っている糸が見えないように。あなたは花しか見ない。これら百と十二の花は、糸でつながれている。その糸は、目撃すること、目を見張っていること、観照、覚醒だ。
 患者が自分の問題を理解するように、できるだけ助けなさい、だが、そうした問題を解決したとしても、同じ人間のままだということを彼らに明確にしなさい。明日、あなたはまた同じ問題を作りはじめる。おそらく、ちがうやり方で、ちがう色合いをつけて。

 そう、あなたのセラピーは、瞑想へのオープニング以外の何ものでもあるべきではない。そのとき、あなたのセラピーは途方もない価値を持つ。さもなければ、それはたんなるマインド・ゲームだ。





The Great Pilgrimage: From Here to Here

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